昭和45年6月18日 ― 月次祭 御教話
【入力者: 末永 満】
私共が、えー、本当にいうおかげを頂くということは、どういうことかというと、神様に本当に喜んで頂く氏子にならせて頂くということを真剣に願いとしての信心に立ち向かった時、えー、神様のお喜び頂けれる信心ということが言えれるだろうと思います。
神様に喜んで頂く、また喜んで頂く、頂きたいという一念。そういう一念が燃やされてくる、そこから私は必ずや真の信心の道は自ずとついてくると思います。それが神様が安心であり、神様がお喜び下さる。それが取りも直さず私共がまた安心して、または、一日を喜びいっぱいで過ごせれるおかげが受けられるということ。
神様が喜んで頂く信心をさせて頂きたい、これをね、本当に思わせてもらうという信心です。ところが神様に喜んで頂くような信心を出来ませずに、とよく皆さんが言われますが。その本気で喜んで頂こうという気ならんからだと思います。神様に安心して頂けれる私共に本気でなろうと、その願いが立てられない限りです、私共は安心のおかげもね、喜びいっぱいの生活、喜びのおかげも受けられないのですから、ね。
やはりおかげを私共は頂きたいのですから、どうでもそのことが思えれる信心にならなければならない。
氏子の苦しみ、氏子の悲しみはそのまま親神様の苦しみであり、悲しみであると、四神様は教えておられます。「氏子の苦しみそのまま神の苦しみじゃ、氏子の悲しみはそのままが神の悲しみじゃ」と。
私はこの事について(?)皆さんに聞いて頂きたいと思うんですけれどもね。これは私はそれこそ地球上に住まわせて頂いておる人間氏子と。その氏子の難儀の様相をご覧になって天地の親神様が苦しみなさる悲しみなさるということではないと思うんですね。私が今日そこに気付かせて頂いたんです。ね。
それはね、いわゆる、信心によっておかげを頂きたい、いや、初めて金光教の信心を頂いて天地金乃神様との(かいごう)、いわゆる、めぐり合いというものが出来て、ね。親ぞ子ぞという名乗り(あげられて)、ね、いうなら金光様の御信者がです、ね。えー苦しんでおる、悲しんでおるということがです、私は神の悲しみであり、神の苦しみだということ。
それならば、世界中の氏子と仰いますからまぁ、神様の氏子に間違いないでですけれども、氏子の方自体がです、ね、自分はそんなものは親でもなからなければ神でもないというたらそれまででしょう、ね。
親がありよるなりよる分からないものにそれが通ずる通うはずがありませんもん。そこで、私共お道に御神縁を頂いて生神金光大神の御取次ぎを頂いて天地金乃神様ここで合い知ることが出来る。そして神様がおかげを頂かしてやりたいと、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと、仰るそのおかげ、その心に私共があー感動してね、その心に沿い奉らせて頂こうとする、そこから金光様の信心が始まる。
そこまでわかりながらね、金光様の御信心を頂きながら、天地金乃神様と親神様と、御唱えをさせて頂きながら、難儀しておる苦しんでおるそういう氏子の姿をご覧になった時に神様が悲しみなさるであろう、または、難儀を感じなさるのであろうと私は思います。あまりに天地の親神様小さくするようですけれども、実際は私はそうだと思うんですけれどね。
だから教祖も、もー、信心させて頂くもののことを氏子とだけお呼びならず信者氏子とお呼びなったらいいな。まぁいうならば、本当のうちのことよんでおられます。
その信心をさせて頂いておる、いわゆる私共信者氏子がです、ね、苦しんでおる悲しんでおる様々な(?)難儀に立ち向かいながらもですその難儀に向かって苦しんでおったり、悲しんだりおったり、沈んでおったりそういう信者の姿をご覧になる時に神様が沈んだ思いになさるだろう、暗い思いをならることであろうと、こう、または、悲しみ苦しみなさることであろうと、こう、私は今日は気付かせて頂いた。
だからね、神様はね、本当に神様にお喜び頂けれる私共にならせて頂かなと、そういう願いがね、立てられない限り神様は何時まで立っても救われなさらないことになりますよね。私はそこに私は気付かせてもらい、そこに今日は着眼しての信心をね、皆さん、果たして自分自身の信心というものをもう一度改めてえー認識し直さなければいけぬではないか、と。
今日はさっきほど椛目の宮崎さんが銀行を勤めておられました丁度奥さんね。
十年あまりの信心なるほど様々な広大なおかげを頂いてまいりましたが最近は朝参りもよう出来ませず信心もろくろく出来ませんのにおかげを頂いておると、けれどもまぁ、おかげを受けなければならないことはまーだ沢山あるということ。
あれもおかげにしていただかないかん、これもおかげにして頂きたいと思う事は沢山あるのだけれどもです、自分がこのような事ではおかげは受けられんと分かりながら最近合楽では和賀、心和賀心と、ね。それこそ、うぉー、今月の焦点でありますところの「なかよう、楽しゅう、ありがとう」と、あのように繰り返し繰り返し仰って下さるのにそのなかようが出来ぬ、楽しゅう出来ぬ、勿論ありがたいなのが出来るはずはない。そういう私ではあいすまんと思いながらもいよいよ生活の現場においてです、今日も親戚方達の人間関係のことについて深刻なまだ言葉以上のもの私は感じたんです。
深刻だなーと、すぐ側に御姉妹がおられる。その御姉妹とも間ですらもです、その姉妹の間ですらも自分の心中に和賀心が維持出来ない、保てないという事にです、悲しそう感じておられます。それでね、これではいけんからここからどうとか逃げていきたい、ここからいわばまともな信心をさせて頂きたい、どういう信心させて頂いたらここから助かることが出来るであろうか、おかげを受けられるであろうか、今日親先生にそのことをお伺いしたいといったような意味のですね、うんー、お話でした。そういう悩みのだけのお話でした。
けれども、これ宮崎さんだけではなくてですね、皆が同じことが言えるではなかろうか、いや私は日参りしとる、夜参りしとるとい人もですやはり同じようなことが、ま、んぁ、大なり小なり言えるのだとこう思うんです。そこで私は今晩の御理解は宮崎さんに聞いて頂くということでもございますけれどもです、皆がそのようなものもっとるのでございますから、ね。そういう意味でえー、お話を聞いて頂きたい。
それにはね、まず私共がですね、私共がね神様を悲しませておるね、神様に難儀をかけておるとういところからね信心が一心発起(されてはやらないです)。
これは私の体験ですけれども本当に難儀の(?)時です。もう本当にもう、うんー、泣くにも泣けないほどしの難儀の中にあってです、一生懸命御祈念をさせて頂いておりますと、いつも頭に浮かんだのはそうです、氏子の苦しみは苦しみと仰せられるが、私が信心が出来ませんために不徳のために神様が私が悲しんでおる苦しんでおること以上に神様は苦しもうしておるんだと思うたら、もうたまらなかった。
しかも今日はです私は、その悲しみが苦しみがです世界中の人間氏子ということではなくて、いうならばお道の信心を頂いて親や子よ名乗りを上げたもの同士のことなんです。 生神金光大神天地金乃神と唱えて、信心をさせて頂いておるその氏子が悲しんでおったり苦しんでおったり、悩んでおったりとするならそれがそのまま天地の親神様の悲しみだ苦しみだということをね、私共が実感させて頂くところから、神様すみません、私の不徳のために神様を悲しませ苦しませ申し上げておるということをです、お詫びをするだけでは足らん、どのような修行でもさせて頂いてということにです、ならです、そこから神様に喜んで頂く信心ということの私は第一段階、第一歩というのがそこから踏み出されたと私は思う。
神様に喜んで頂く信心がさせて頂きたい、今までのところでは神様をなげかけせておるの私。だから神様に喜んで頂きたい、信心は親に喜んで頂きたい信心と。そこのとことにです私共が思いをね、えー、集中して神様が喜んで頂く信心とはということになってくるんじゃないでしょうか。そこからですね、一心発起が出来ぬじゃないでしょうか。
今日、丁度お昼下がらせて頂いておりましたら日田の綾部さんの御主人がお参りになりました。今日はあの、かくのいというお酒やさんがあります。あそこの、うんー、酒のほとんどを綾部さんのところで、えー、量らさせるというほどしの、大分県ではもうゆうすうなお酒さんです。
そこの、えー、御主人が六十いくつ、お父さんは大蔵大臣にもなられた方だそうですね。大変な形式なお家らしいです。だからまー、相対でですねそのお父さんのに忠告でもするというのはもう女ながらも私より他はおらん。もう皆は平身低頭はぁーといったギリだち。そのお父さんがね、先日私の方にみえましてね、男泣きになかれましたち。
息子さんがもうとってもいい方だそうです。
もう、あんー、しゅるしかばってん起きて、まぁ、酒屋の前掛け一生懸命その、これは(男やらは店員や)一生懸命仕事しておる時にはもうそれはね大変ば働きをなさるんだそうです。一生懸命、まじめです。あっちが酒屋のあっちらが若大将ちゅうごして働きなさる。ところが一度着物を着て洋服をきなるとですね、もうそれこそ、おんー、
(たこなんばが糸ぬぎたごたるもん。どこさえいきなさったか分からん。もうどこから百五十万、どこからか二百万(?)言うてくる。その使い方がもう大きいらしいです)。 自分もね、今まではね、まだ自分が若いから元気だからと思っておったけれどもね、もう私も六十いくつになってね、あれがどういうことになるだろうかと思うたらというて、男泣き泣かれた。
それでねあなた方がね本当にそこのところ助かりたいなら、今私が合楽にお参りさせて頂いて、親先生に一遍会うて下さいっち。合楽ちは、あー、田主丸の(?)は、あそこは創価学会じゃなかですかち言うた。あまりりっぱななものが出来おるけん金光様はあげんなもの建て切るはずはずはなかちゃち思いよった。(笑い)
(笑い)(?)小さい教会いくらも。それから創価学会じゃろうち。私は前を通って思いよった、はー、そこは金光様ですかちいうことだったそうですけどね。だから、今日もお参りをしたいというて約束までしてあったので、その待っちゃったけどとうとうみえなかった。私はそれそ聞きながらね、もう本当にめぐりということの恐ろしさを感じました。
こちらには、助けたいという神様の手が差し伸べられておるかというとですね、いわば、その人の持っておるめぐりが反対にまた(?)。参りたいという心本当にあるとです。前も何回もそれを話されたことがあるから一遍ちうのは気持ちがあったそうですから。ところが何かその、あんー、出来ないだそうですね。お参りが出来ない。
先日もここに井上さんのところの御親戚に、遠い親戚になる方が兄弟で参ってみえました、二度参ってきた。その時にはお届けは出来なかったんですけどね、まぁ、いろいろな子供の深刻な問題ですから。兄さんのことは、弟息子の方が二つになる。その息子がね実にその奇病をもっておる。もうこの紙を見たら食べてしまうちいう病気。もう新聞紙やら雑誌やらそこにあるなら、ここへやって破って食べてしまうだそうです。そしてお乳は飲んであまり他のものは食べないだそうです。おしめでも何でもこうやって引っ張り出しといてからですね、こう歯でかじっていとんねちからたぶる。本当にへんな病気ですなっち私。病気というてもねこれはね、あのとても医者では分からん病気なんです。
それで私はここであの中前という人が、もうこの人はやんがて二十歳くらいになる息子さんでしたけれども。マッチの軸を食べるとういのです。その自分にははいきゅうのマッチですからでね。もうそれを食べるけんどっかになお。もうそれはですねもう霊感が働くとやろもうどけなおしっとっちゃ分かる。
酒好きが酒ビンをどこになおしとったちゃ分かると同じことですたい(笑い)。もうどげんかして探し出してから。そしたから食べてしまう。それでもはいきゅうじゃ足らんわけですね。というように私は申しましたら、先生実は私げんともそのマッチを食べますちう、マッチのじくうを。
どういうことですかち。そんならとにかく私は今日お願いするから、御神紙、神様。紙を食ぶるならば御神紙どんどん食べさせなさいと私は申しましたらね、それが先生不思議なことでございますち。この間御神米を頂いて帰ってですね、もうお届けはしませんでしたけれど、(御神紙を御神様じゃからと思うて、それを食べ出するばってん御神米だけは絶対(?)。(笑い)
もう私はそれを聞いてですね耳がぞーんと、しましたばい、ほんと、はい。ほんとですよ。もう新聞紙じゃろうがね、(笑い)新聞紙じゃろうが雑誌じゃろうが食べるとがですね、御神紙は食べない、と。障子紙でも破って食ぶる紙を見たら。それが御神紙だけは受け付けんというのはね、それこそ医者によっても分からない病気、いわゆる、霊的な病気でしょう。心の中にですね、それを食べさせまいとする働きなることは私は感じましたね。
今の(?)もそうです。お参りをしたい、お参りをしたい、そういう男泣きなかなければならんほどしの難儀な問題があるからどうでもと、思いながらもですね。いよいよなら約束したその日になってくると、何かしらん (のってきてならん) ことでお参りが出来なくなってくる通りだ。
めぐりのそのやはり実体といったようなものをね、やはり私共が信心わけにはいけないんですね。だから私共の場合でも同じですよ。お参りしようと思っちゃって(お参りしよんごたる)時にはやっぱめぐりが(?)言いよるとですから。そういうところはね、これが信心だというところは本気でね、私はそこに踏ん切りをつけて信心の、これが信心だということをです進めていかんとめぐりにやってしまわれる。
けれどもこれだけはっきり言れるということはね、めぐりが五十の力ならね例えば、あんー、正しい信心が五十ならね、真の信心が五十と、五十の力なら、絶対めぐりの方が負けねばならない法則があるということ。これはせいじゃということでしょう。もう正しい者が絶対に勝つとういこと。けれどもね、その五十の方が四十である場合はめぐりにしてやられるだけは間違いはない。
だからね苦しい時にはねいうならば苦しい時にはそのめぐりの苦しんでおる自分じゃない。めぐりも苦しんでおったのですから、そこを一つ踏ん切らないかんですね。自分がなさけないとか苦しいとかと思うておる時にはですね、めぐりもへとへとの時だと思うて真の信心の方へ、それそこ泣く泣くでも辛抱しぬかせて頂くおかげを頂かなければいけないです。
そういうのことでしたが、また、綾部さんも話される中にです、「もう先生もこの頃はもう私の方に神様が来なさるけんで、もうどうこん出来ん」ちゅうのとを言われますもん。どういうことですかち言ったら。あちらにもその家そののタンスの中のことも知ってある叔母さんが、大変元気な叔母さんですけど、みえる。
もうそれこそもう我よかごと言えれる人なんです。もうここんなんでん、もうこの頃もお参りしてみえましたですがね、もうネグリジェを着たまま。出、丁度御理解が「赤裸々」の御理解ちうことじゃった。ほしたら、もうたまがった、たまがった。合楽の先生中まで見せらっしゃるいいなしゃるけん、私はズルズボン履いて来とるはずじゃった(?)。笑い)というくらいにですねもうおもしろい叔母さんです。
そりゃもうね、この頃はね、私がどうかその文句でも言いよるとですね、「おら、あんたこの頃宅祭りした時に合楽の先生が腹立って出来んそんなこと言いたらで出来んち言うちゃろうが、それからいっぺん、いっぺん言わっしゃるそうです。
もう初めはこんなこと、それが腹立ておったばってん、「これは神様ばい」と思うごとになりましち。それはあのもうほんとにあの男でもかなわんくらいなやっぱ相手ですからね、女ながらも。ですから、会議何かとこに行ってですね、皆話しを聞きおってから最後にこうじゃないですかち言うたら、もうそれで決まるちいうくらいらしいです。ね、やっぱりその女(?)女ごつち馬鹿にされん。(?)
それがねそげなん会議とこで何でか行ってからですね、もう綾部は絶対腹かかんで、そげなんこと私がどげなんこと言うちゃって腹かかんですよち言うて、(せんらっしゃるそうです)。だからもう本人大きな声も出しませんち。けれどもおかげでです、もう(?)どうしたこの人達じゃろうかと思いよったけれども、これはもうこの人が神様と思うようなって、そしてそこで言うとか、または、腹を立てんとかというだけではね、すまん、相済まんからその言葉有り難く思う稽古ば一生懸命しよりますち言わしゃった。
あちの、おんー、宅祭りの時に「天真地心」という御理解を頂いた。天の真地の心ということ。天はもう与えて、与えて止まないもの。その与えて、与えて止まないものは私共は頂きよる。けれども、こっちの受け物が悪いから漏れてしまっておるのである。
地心、地の心何か。地の心というのは、もう受けて、受けて、受け抜く心。いわゆる、黙って受ける心。誰かどういうこと言っても黙っておく、誰か何と言っても腹を立てない。そこんところをです、大地の心を心として大地の心を研究させて頂いたら、それがよう分かる。受けるだけではない、それを例えば野菜なら野菜、木なら木(またおくっておる)。
黙って受けるだけではない、そこんところをなら綾部さんは一生懸命取り組んどりますと、こう言われる。今日も先生のところこう参ります時に、その(トバン)のところにあまり良いことを書いてあるから、それを読んでまいりましたち。そしたら、この頃からあの主人、研修会の時にそのテーマになりましたのがトバンずっと書いてある。もうあの通りだと、私の場合は今、まーだ一生懸命それを辛抱せんならん。
ところがあの塗板にはね、「辛抱しなければならない時はまだ(本当なもんじゃない」ち。ずっと辛抱しておる時にはですね、まだ本当なものじゃない、自分というものを発見しよる。
「夏がよいの冬がよいのというてです、自分の好きな方だけをいう人は一年を半年にしてしまう人だと。夏も有り難いならまた冬も有り難いと、分からせて頂くこそ、まるっとそのままがおかげになるのだ」、というようなことが書いちゃる。
だから、だから例えば宮崎さんのさっきのお話をかりるならです、例えばどのような人間関係、しかも自分とは弟の嫁であるといったような場合でもあってです、今日はこの人はどげんなふうに、どげんなふうに言いようが、しようが、ね。それをこちらがどっこいと、始めから受ける気持ちでおれば、しれーしれ笑うて見られる。どげんな事ば言うじゃろうかと思うちから。これはどげんなことするか、と。どげんなこと言うちゃってこちは信心で受けるけんで平気だという気持ちを作っとけばいいち。
それそをうかつにしておるからかっと山の中で猪が飛び出してくると、その猪にびっくり仰天しなければならない。けれどもね、今日は猪撃ち行くという気持ちでおるとです、猪の出て来たのが有り難い。銃を構えて、いわば、猪をいけれるえー、炒めることができるというわけなのです。
だからね、信心をさせて頂くならそういう覚悟が必要だと、今日私は申します。神様に喜んで頂けれる信心をさせて頂くぞ、と。本気で神様に喜んで頂く信心をさせて頂く。今日はどのようなことが起こってきても、それをどっこいと、信心の心で受けさせて頂くぞ。
今日は、あの人と一緒に仕事せにゃならん、すかんとと。いうならばね、それがどげんな顔しようが、どげんな態度をとろうが、一つ猪と思うちから。こっちが鉄砲さえ構えとけばよいという気持ちになってです、するとですね、よーうそこに神様の働きをその人の動きの中から、見極めることが出来る。ほほ、神様がああいうふうにして私共を鍛えて下さるとばいなと思って、見ることが出来る。
そこでどげんなこと言うようが、神様ありがとうございますで受けれることが出来るというわけなんです。うかつにしておるからそれを受けそこなうのだという。神様のね神様の心が分からせてもろうて、神様の心に沿うていくことが信心だと、もう皆さんもよーう、おぅー、分かっておられることであろうと、こう思う。
分かっておりながらです、分かっちゃおるけれども先生は言いなさるけれども、とけれどもつけたら、もう信心ならんと、塗板に書いてある。分かっちよるけれども、先生言いなさるけれどもと、けれどもをつけたらもう信心にはならん、それではいつまで立っても神様を泣かさなければならない、悲しませなければならないということをです、私共思い込ませて頂いて、ね。
今日宮崎さんのお話の中にあったように、皆もやっぱり同じようなことが言えれるんじゃないだろうか。おかげは頂きたいことがいっぱいあるどだ。合楽で今、唱えるよにして言われておるところの和賀心、和賀心ということもです、よーう分かる。ほんとに和賀心なったらそれをよかろうごとあるまで分かる。
けれどもいうなら、その心にならせて頂こうと、本気で一心発起をするということ。そのことがね、まず神様を安心させることだと。今日は皆さんにその分かって頂きたいのはね、私共がね神の悲しみは、あー、氏子の悲しみは神の悲しみとこう仰る。氏子の苦しみは神の苦しみだと。
それはね、あまりにも漠然としたいわば、信心のない人達の上にまでそうであるというふうに思っておったから、悲しませておった。私だけじゃなかけんち言いよったごたる平気になってしもうとるじゃないでしょうか。そうじゃない。
親よ子よと言い、かわせれるものがのことなのです。だから大変(?)ね。だからそれに気付いた者は、例えばなら、合楽の者だけとするか。そんなたったこれだけのことの人達のことにです、神様が悲しみござる、泣きござるということになったらです、(こすこす)責任を持ってね、私は御道の信心、信奉者の責任をもってそこんところの神様に安心して頂けれる、喜んで頂けれる信心に本気でならせて頂こうという姿勢をねつくらなければいけない。
神様に喜んで頂く信心も出来ませんなんて(?)、一生言い続けたちゃって出来ん。本気で神様に喜んで頂けれる信心をさせて頂こうと。なら、神様に喜んで頂く信心とはと、いうところに焦点をおいて信心の研修をさせてもらう、修行もさせてもらう。
そこから、例えば出来なくてもその道を辿らせて頂いておる限り神様も「あの氏子は安心」という、思うて下さる。思うて下さりゃ、おかげの方も頂けれるということが分かる。私共おそらくは、一生かかって神様により喜んで頂けれる私になることを願いとしていくことでございましょうが。
まずそこんところをです、一つ信心の御道の基本にして、いや、ほんとの神様の氏子は我合楽の信心信奉者であるというね自覚。そして、神様に悲しませてはならん、神様になさけない思いをさせてはならん。そういう生き方が(?)あろうけれども、やはりこうと決めたらね、こうと決めたらここをやり抜かせて頂くという信心を一つ身につけて頂きたい。
私は先日ある方のお取次ぎをさせて頂いて、ほんとに身につまされて(?)ことがある。その方マージャンをやる。そのためにね、えー、親からも悲しまれておられる。周囲の者も皆そのために、もう家の中そのために真っ暗なるくらいにある。
それでね、大変の神様このマージャンが止められますようにというお願いされたんですよ。中々止められんち。私どんが考えたのに、マージャンだ止むるくらいなことわけなかろうごたるあるけれども。さー、そらがねそのめぐりともなりゃねそれこそめぐりが(引きつづる渡す)。
これは皆さん、マージャンとだけ思うちゃならん。お互いが、はぁ、ここを通りのぞかせて頂きゃおかげが頂けるばってんということがあるでしょう、お互いに。それが(?)願うたことがある。ところがね、今日はいよいよマージャンの約束した日だけはもう、もうとにかくじっとしておられん。
(そういう時に)(?)ありましたらね、私の御神願にあの、偲ぶというのがあります、(つるしのぶちゅうのが。こうしだのようなしゅるい)の植木ですよ。それをこう丸くしたこう(つってある)。今頃どこにもね(庭先にも)かけてあります、(つるしのぶ)。
その(しのぶ)は私の目の前にこう頂くんですよ。私はそれを頂いた時にね、もうほんとに私自身が(こうやって泣こうごっただけね。)ほんとにマージャンは私は止めれば家の中もう円満に行く、と。だから止めさせて下さーいち、て(ねづよいちゃ)。
だからね、お前がマージャンばっかりしてからち、怒りなさるような親神様では、決してないちゅうこと。そういうめぐりのためにその人は苦しんでおるのだけれども、神様さー、そこんところを偲んでくれよちなさる気がしたんです、私は。
(?)、そこんところを一つ偲んでくれよと、ね。それこそ神にすがって辛抱してくれと、そこんところをマージャンにも行きたかろうばってん、そこを辛抱してくれよ、ちゅうこと。もうお前はもうそげんマージャンばかりするなら、罰かぶらせるち言いごたる親神様でないことが分かりますね。
そういうめぐりでですね、繰り返し繰り返しめぐりが出て来るこげんなんことじゃおかげ頂けんことは分かっとってもそれが次に出て来る。これはマージャンだけ皆さんないですよ。皆いろんなことあるとですよ。甘いもんが好きな者、甘いもんが目の前(?)。そこをこれがあったんじゃ自分がおかげが頂けんと思ったら、もうほんとに(これでにぎってこうひっぱるな)ね。
ところがそれまた(こうひっぱたらめぐりになる)。そこをただこうひっぱるだけじゃいかん。生神金光大神様と、神様にすがって辛抱するのじゃということな。だから私ちここのところをですね神様、天地の親神様のその愛情というかその深さというかね、お前はもうそげんなんべんで繰り返し繰り返しやりそこなうならもうごたるやったらもう罰かぶらせるちゅうごたる神様絶対ない。
そういう時にです、神様も一緒に苦しんでござるね。(私共これがあっちゃおかげになる)、ほんと言う時ですね。一生懸命こればこちらにひっぱる時です。生神金光大神様ち(ひっぱりおる)時にね、天地の親神様もまた、それこそ一生懸命の力をもってですね、苦しんでおられる、悲しんでござるということを私はその時思った。
神様というのはもう私共と共にね助かろう、私共と共に悲しんでえー、かな、あ、悲しむもしよ、喜びもしよ。喜びも悲しみも一緒にそれを私共の上にかけてござる願いをねかけてござるということ。
私はこのへんのところをね、頂く時にこりゃー何が何でもね、こんなに神様に悲しい思いさせておるのであるから、これは一つ本気でね、(うちきる)は難しいされど妙が(?)のである。それには妙がの素晴らしい、喜びの素晴らしいことを一つ本気でね、私共は体得して、その喜びを売るためには、また、神様に御安心を頂くことのためにはここんところをうちきっていかなければおかげが受けられんということにね、本気で神様にすがって辛抱していくというようなおかげを頂いていかなければならない。それは見やすいことと思われない。
けれども、神様も共々に修行して下さる。神様も共々に同じ苦しみをもって私共に望んで下さる。そこでです、私共がねただ自分で改めようというのじゃない、神にすがってのところですから辛抱もしにくい、けれどもそこは(?)百人なるは、神様のおかげが頂けるはずなんです。そういうことに私共本気で取り組むということが取りも直さず神様がもうあれもあのことにまだすっきり出来ておらんけれども、あのような一生懸命の思いで取り組んでおるのであるからもう安心というて下さる。
そこに私共にもまぁーすっきり出来んにいたしましても、神様限りないおかげを喜んで下さることが出来れる場というものが出来てくるね。そういう皆さんおかげを一つどうでも頂いてほしいと思います。宮崎さんが願うておられる、十年かかってまだ出来ないことを今日の(?)でいよいよ一つの今日の(きりをつけられて)、こんなことじゃいかん、こんなことじゃいかんというておられるね。
こういうたった家庭のこのくらいことの中に自分の和賀心が生かされないということは残念だと。それにはどういう私が心の状態なったらよかろうかと、願いをもっておられる。その願いに対して、神様このような御理解今日は下さった。これは宮崎さんだけの(とじゃなくて)、皆のこと。そこでそれを可能にしよるのは修行なのです。それを楽に出切るようなおかげを頂くためにはやはり修行なんです。
それこそ日参りお参りさせて頂いてでもです、そこんところを頂かしてもらう、そして今日もですねどうぞあなたのお心に叶う一日でありますように。もしどのような例えば、猪が出てまいりましてもびっくりするよなことはない。もうはじめから猪を取りにいっとるのじゃからという気持ち。いつも和賀心で構えておる、だからその猪を炒めること出来りゃ、相手も助かるこっちも助かるというおかげになってくる。
そういうおかげを目指させて頂く。今日私がいわゆる、私の新たな発見、天地の親神様がね氏子の難儀は自分の難儀のように(?)おられる。その氏子とはね、もうそれこそ地球上の全てのもの、人間という意味ではなくて、まぁ今日ここいうならば、合楽にここに集まっておる皆さんだけのためにというふうに頂かにゃいけん。
親神様というておる者の上にだけだということです。その証拠には例えば、天災地変なんてというのはやっぱりそういうじゃないでしょうかね。もう親よ子よということになってないものだ、全然。ですからね、私共がほんとにその親よ子よというところの信心が分かり、親神様と言うて、えー、すがらせて頂くのですからその親神様の心を分かって、親神様の心に沿うていこうというね、いわゆる、神様に喜んで頂く信心をさせて頂こうという一念を燃やす、一念発起させてもろうてそこからもちろん倒れ転びもございましょう。 けれども神様はそれだから罰を当てるというような神様ではない。そういう時ほど神様が悲しんで下さる、神様はそういう時一生懸命なって下さる。それこそ、さー、お前だけには苦労させん、私も一緒に修行するから、(さー、しのびをしのんでくれよ)と。というような働きがあるんですからね。お前が夫婦で辛抱しよるごたるばってん、金光様と言って辛抱しよる時には神様も一生懸命に氏子と、言うて辛抱して下さっておる時と思わせて頂いて改まりに改まっていかなければならんと思うんですね。どうぞ。